こんにちは、窪田忍です。
私が経験した大学駅伝シリーズ、今回はいよいよ箱根駅伝です!
日本のお正月の風物詩、箱根駅伝。もはやご存じでない方の方が少ないくらいでしょう。
私の4年間の物語をぜひご覧ください。
◆私にとっての箱根駅伝
元々陸上部ではなかった私。
冒頭にて、「ご存じでない方は少ない」と言っておきながら、実は私自身は中学3年生の冬まで箱根駅伝の存在を知りませんでした。
陸上を始めたのも、マラソン大会や県の記録会で上位だった事や、仲の良かった先輩が陸上で高校に進学したのを聞いて、進学のために選んだというあまり褒められた理由ではありませんでした。
当然のことですが、箱根を知った時もどれ程の規模の大会なのかも知らず、ましてや駅伝で20km以上も走るなんて考えられませんでした。
そんな私に衝撃を与えたのが、当時順天堂大学の4年生、『山の神』今井正人さんでした。
たった1人で4分以上もあった差を逆転し、さらに2分近い差をつけての圧巻の往路優勝。
箱根駅伝を知らなかった私が、圧倒的な衝撃を受けて、自分だったら箱根駅伝を走れるだろうか?と意識し始めた瞬間でした。
もちろん当時の私に、箱根を走ることを明確にイメージを出来た訳ではありません。
ただ、その頃から箱根を走ることが目標になったことは間違いありません。
◆1年生【7区(21.3km) 1時間3分43秒 区間賞】
1年の時の箱根は7区(21.3km)に選ばれました。
選手に選ばれた嬉しさと、21.3kmという距離に対する不安が半々くらいだったと思います。
というのも、当時レースで走ったことのある最長距離が全日本大学駅伝6区の12.3kmで、それよりも10km近くも長い距離に対して不安がありました。
ハーフマラソンを経験しているとまた違ったと思いますが、全日本大学駅伝後に予定していたハーフマラソン前に違和感が出たため回避したという経緯もありました。
練習では30km走や20kmのタイムトライアルもやっていましたが、箱根という大舞台でいきなり本番を迎えるということは以上の想像のプレッシャーでした。
とはいえ、選ばれたからには弱音を吐く訳にはいきませんし、チームの代表という責任感は強く感じていました。
また、往路では1区大迫選手の区間賞をはじめ、多くの同級生が区間5位以内で走っており、自分もやれるはずだと言い聞かせていました。
走り始めて最初に感じたのは、まさに割れんばかりの声援のすさまじさです。 初めての箱根駅伝での声援の衝撃は忘れることが出来ません。
スタート直後から、空気が振動するほどの声援。
自分の走る足音や心臓の音、呼吸すらも聞こえませんでした。今思い出すだけでも鼓動が高鳴ります。
舞い上がってしまいそうな状況でしたが、オーバーペースになることなく、とにかく3'00/km前後のペースを刻むことだけに集中して走れていたと思います。
人が少ないところがありつつも、本当に最後まで声援が途切れなかったので、改めて箱根駅伝の注目度の高さを実感しながら走りました。
ペースを崩すことなく、きっちりと自分の走りができ、結果として区間賞を獲得することが出来たのは本当に嬉しかったことを覚えています。
走り終わってから数時間、声援による耳鳴り(特に左)が続いたことも、本当に大舞台を走ったんだということを実感しました。
◆2年生【9区(23.2km) 1時間09分06秒 区間賞】
全日本大学駅伝の優勝から迎えたこの年の大会、出雲で負けていたため大学駅伝三冠こそ叶わないものの、箱根優勝に対する気持ちは強くありました。
この年に任されたのは9区(23.2km)、復路のエース区間とも言われる区間でした。
チームのプランとしては、ライバル東洋大学の絶対的存在である5区柏原さんまでに差をつけ、5区で逆転されても復路で再逆転するというものでした。
私自身、自分の所で勝負になる可能性があったため気持ちは高まっていました。
1年時と違い距離に対する不安は全くありませんでしたし、前半起伏が激しくも下り気味で、後半我慢するような9区のコースに得意な意識もありました。
しかしながら、1区から思うように流れに乗れず、3区の段階ですでに東洋大学から遅れを取る展開に。
5区ではさらに大きく引き離され、5分以上離れた4位で復路に突入しました。
復路に入ってもなかなか差を詰められず、私に襷が渡った時には10分ほどの差がある3位という状況でした。
先頭との差は大きかったですが、とにかくまずは2位の早稲田大学に追いつくことを考え、余計なことは考えずに走りました。
思っていたよりも早く、10kmに差し掛かる前に2位に追いつくことができたため、そこからは監督車からの情報を頼りに区間賞を狙って走りました。
前半に想像以上に脚を使ってしまい、後半思うように上げることが出来ませんでしたが、なんとか粘り切り区間賞を獲得しました。

しかし、ライバルの東洋大学は大会新記録を8分以上も上回る大会記録で優勝。
駒澤大学としては非常に悔しい2位でした。
◆3年生【2区(23.2km) 1時間11分25秒 区間7位】
出雲駅伝の惨敗、全日本大学駅伝での逆転優勝を経て、今年こそ優勝を… と迎えたこの年の箱根駅伝は、大会前から波乱万丈でした。
この大会に関しては、私自身も記憶が薄い部分があります。
そのくらい気持ちの動揺が大きく、呆然とした大会でした。
大会直前に主将であり主力選手であった撹上さんがインフルエンザに罹患。
大幅な区間変更が余儀なくされ、9区を予定していた私が2区に。
もちろん多少動揺はしましたが、どの区間でも走れる準備はしていたつもりでしたし、自信がない訳ではありませんでした。
しかし、いろいろなことを考えてしまい、一睡もできませんでした。
この頃から以後10年近く続く不眠症を発症してしまうのですが、当時はそんなことは初めての経験。「レース前に眠れなかった」という不安でいっぱいでした。
さらに、この年の箱根駅伝は異常な暴風。2区は終始向かい風でした。
スタート直後から全く身体が動かず、さらには強い向かい風。
後ろの集団にすぐ追いつかれた後、当たり前ですが誰も前には出ようとしません。
しかし、そんな状況でも、優勝を狙うチームとして前を追わない訳にはいきません。
結果、終始風よけになってしまい、さらにはラストでは抜かれ区間7位、チーム順位も落とす結果となりました。

それまで経験したレースの中でもワーストともいえる走りで、放心状態でした。
その後、復路の選手が踏ん張り、見事復路優勝を獲得し総合3位まで上がったものの、役割を果たせなかった不甲斐なさと悔しさで、ひどく落ち込みました。
◆4年生【9区(23.2km) 1時間08分56秒 区間2位】
ずっと目指していた大学駅伝三冠についに王手をかけた、私にとって最後の箱根駅伝。
前年の個人的な悔しさもあり、並々ならぬ思いがありました。
駒澤大学として走る最後の箱根駅伝は、区間賞も獲得したことのある9区でした。
得意意識もあり、全日本大学駅伝後も調子が悪くなかったため、区間新記録も視野に入れていました。
しかし、大会2週間前程からなんとなくしっくりこない感じがありました。感覚的なものでしかありませんが、ピーキングがずれてしまっているような感じです。
チームとしてのプランは、往路を先頭から1分以内で終えて、復路で逆転するというプラン。
1区中村選手は、区間賞こそ獲得できなかったもののトップと10秒ほどの差と好走、2区の村山選手が一時は後続に1分差をつける快走。
後半痙攣を起こしてしまい失速したものの、見事トップで襷リレー。
3区で東洋大学に逆転され1分近い差をつけられつつも、4区では21秒差まで詰める。
まさに手に汗握る展開に。
5区でまた少し差を広げられたものの、往路終了時点で先頭の東洋大学とは59秒差と、プラン通りの射程圏内でした。
十分に優勝が狙える、
そう思っていました。
しかし、復路に入ってもなかなか差が縮まらないどころか、じわじわと離される展開に。
一気に差が開くことはありませんでしたが、計測ポイントの度に数秒ずつ離され、私に襷が渡った時には3分40秒の差でした。
ただ、区間記録を狙っていたこともあり、ここで先頭との差を30秒前後まで詰められればまだいけるという思いがありました。
いま思えば、気負い過ぎていた気もします。
走り始めてすぐ、若干身体が重たい感覚がありました。LAPを確認しても、自分の感覚よりも5秒前後遅く、距離を踏むごとに身体の重さは増し、脚も思うように動きません。
次第にそれが焦りとなり、後半はさらに動きが悪くなりました。

結果として区間新記録どころか区間2位という結果となり、先頭との差も30秒しか詰められず。
アンカーも必死に前を追ったものの、じわじわと離され、2位という結果で最後の箱根駅伝を終えました。
本当に悔しかったですが、それ以上に「決して大きなブレーキがあった訳でもないのに、なぜ負けたんだろう?」という思いがずっと頭を巡っていました。
そして閉会式の時、東洋大学の酒井監督が近づいてきて私にかけてくれた言葉は今でも忘れません。
「駒澤に窪田がいたからうちの選手は頑張れたし、窪田に勝つために必死になれた。窪田のおかげで強くなれた。ありがとう。」
この言葉を聞いたときに改めて、『負けた』ということを実感した反面、上手く言えませんが、負けたのがこのチームで良かったとも思いました。
私は恩師である大八木監督のことを尊敬していますが、それと同じくらい、ライバルチームの学生にも敬意を払う言動・行動を躊躇なく取れる酒井監督も、本当に素晴らしい監督であると感じました。
◆最後に
こうして私の12回に及ぶ大学駅伝は幕を閉じました。
私にとっての箱根駅伝は、『勝つことがどれほど大変か、そして難しいか』ということと、『駅伝におけるチーム力』の重要性を実感する大会でした。
箱根駅伝で優勝できなかったことは、いまでも思い出すと悔しい、苦い記憶です。
しかし、箱根駅伝での『負け』があったからこそ、その後の競技人生でも「もう二度とあんな思いはしたくない!」という気持ちで踏ん張ってこられた部分は少なからずあります。
世界で活躍するために箱根駅伝は必要かどうかが議論されることもあります。
私は、箱根駅伝での経験があったからこそ現役生活をがんばれました。
そして箱根駅伝には、そこに懸けるだけの価値もあると私は思います。
そしていよいよ2026年の箱根駅伝が始まります!
みなさんにも、ひたむきに走る学生たちを、純粋な気持ちで応援してあげて欲しいと思います!








