
こんにちは、窪田忍です!
10月13日の出雲駅伝を皮切りに、いよいよ駅伝シーズンに入ります!
この季節を待っていたという方も多いのではないでしょうか。
私自身、駅伝シーズンを迎えるにあたり、これまでの経験や思いを少し振り返ってみました。
個人的な思いにはなりますが、駅伝に関しては本当に様々な思い出があります。特に大学駅伝に関しては、4年間とは思えないほど濃厚な時間を過ごし、競技者としても人としても大きく成長させてもらいました。
これまでメディアやSNSで駅伝に対しての思いを語ったことはありますが、まだまだ話していないことも多くあります。
◆大学入学前
そもそも私は、大学で陸上を続けると決めた時に、明確にひとつの思いがありました。
それは、『1年生から大学三大駅伝に出場出来なければ、この先この世界でトップを目指せない』という思いです。
それはどの大学で目指すか、良い目標かどうかではなく、私自身の”覚悟”でした。
その中で、強豪とも言われる駒澤大学に進学した訳ですが、もちろんその覚悟は変わりませんでした。
むしろやるからにはある程度厳しい環境に身を置きたいと考えていたため、理想のチームだったと言えます。
ところが、高校3年の冬、全国高校駅伝の2週間前に足首の靭帯を伸ばしてギプスをはめる程の大怪我をしてしまいました。
それでも痩せ我慢をして数日でギプスを外し、無茶をして全国高校駅伝・都道府県駅伝と出場。
当然のごとく怪我は悪化し、全く走れない状態で入学式を迎えることになりました。
初めての寮生活、走れない苦しさ、周りに置いてかれているという焦りから、本当に『何をしに大学に来たのだろうか…』と思う日々でした。
そんな中、恩師である大八木監督から言われたのが、「先を見て、今やるべきことを考えなさい」といったことでした。
当時、大八木監督がどのような意図でそう声をかけてくれたのかは分かりませんし、ただ会話の流れで口にしただけかもしれません。
ただ、当時の私にとっては道標のような言葉であり、その言葉があったからこそ潰れずに前を向いていられたのだと思います。
◆出雲駅伝出場への道のり
さて、駅伝の話に移りたいと思いますが、もう少しだけ駅伝前のことになります。
当時、駒澤大学の代表として出雲駅伝に出場するためには、9月の記録会で5000mのタイムがチーム内上位6人に入っている必要がありました。
上位6人ともなれば、当然のように13分台。
一方、私の当時のベストタイムは14分05秒前後。それに加え、春先の怪我でそのシーズンは一度もレースに出場していませんでした。
しかし全く焦りはなく、むしろ監督からの言葉通り『やるべきことをしっかりと積み上げた』という自信を持って記録会に臨んだことを覚えています。
結果は13分55秒というタイムを出すことができ、目標であった『1年生から大学三大駅伝出場』の一歩目を踏み出すことが出来ました。
◆1年生
1年時の出雲駅伝、つまり大学駅伝デビュー戦は、9月の記録会とは違い比較的不安があったことを覚えています。
というのも、私は高校の時の駅伝やロードレースでほとんど上手く走れたことがなかったからです。率直に言ってしまえば、ロードレースに対して苦手意識がありました。
とは言え高校時代とは練習量が段違いに増えたということ、特に高校ではあまりやらなかったロードでの練習が増えたこともあり、不安と期待が半々くらいだったと思います。
任された区間は4区。距離は6km強で、どちらかと言えば繋ぎという位置付けの区間ではありましたが、出雲駅伝は全体的に距離が短いため、どの区間であってもスピードは重要です。
チームの目標は、『三大駅伝ですべて3位以内に入る』というものでした。その上で、当時二強と言われていた早稲田大学・東洋大学の一角を崩すということも視野に入れていました。
チームで3位以内が目標ということは、当然個人でも相応の結果が求められます。区間賞は狙っていませんでしたが、区間5位以内には入りたいという思いでした。
そんな中でついに始まった初の出雲駅伝。
1区の選手が少し苦しい立ち上がりとなり、その後も流れ乗り切れていないような状況が続き、私に襷が回ってきた時点で7位という順位でした。
チームの目標からすると苦しい順位でしたが、それよりも私はとにかく自分の走りをすることだけを考えており、正直あまり内容は覚えていません。そのくらい無我夢中で走っていました。
結果的に順位を2つ上げることができ、走り終えた感触としても納得のいく走りではありました。
区間順位は2位。目標達成ではあったものの、区間賞との差は1秒。
それを知った時、物凄く悔しかったことを覚えています。
チームとしても最終的に3位と目標達成。
目標を達成した嬉しさはあったものの、やはり感想としては悔しさの残る大会だったという印象でした。
◆2年生
2年次からは駅伝へのモチベーションが大きく変わります。
自分自身の力が付いてきているという実感もありましたが、何よりチームとしての目標が『大学駅伝三冠』になったことが大きい事でした。
やはり目指すものが大きければ気持ちも引き締まりますし、その目標達成のためには、私自身がチームを引っ張る気持ちが無ければという思いもあり、しっかりと練習が積めていることには自信を持ちつつも過信をしない、ということを常に自分自身に言い聞かせていました。
この年に任された区間は6区、つまりアンカーです。距離は10.2km。泣いても笑っても私のゴールした順位がチームの順位になるという責任も感じました。ちなみにこの先、駅伝において何度もアンカーを走ることになるのですが、この時が人生初のアンカーでした。
大学駅伝三冠が目標と書きましたが、実は当時、駒澤大学は10年間出雲駅伝での優勝がありませんでした。
アンカーまでトップでだったが、最後の最後に抜かれる…というパターンが多く、6区はいわば”鬼門”的な区間でした。
そんな区間を任された訳ですが、不安はなく、むしろその”鬼門”を自分が打破してやるというくらいの気持ちがあったのを覚えています。
さて、結論から言うと、この大会で優勝することは出来ませんでした。
前年同様、1区の大きな出遅れが響き、チーム全体としてずっと苦しい展開でした。
抽象的ではありますが、駅伝の”流れ”の重要性を身に染みて実感したのもこの大会です。
その中でもなんとか順位を上げてきてくれて、私に襷が回ってきた時には約1分20秒差の3位。優勝を狙うには厳しいタイム差でした。
しかし不思議と諦める気持ちは無かったですし、どこかでまだ勝てるのではないかという想いもありました。
2位の早稲田大学に追いついた時も、そこで一旦休もうという気持ちは毛頭なく、とにかく先頭の東洋大学を追い続けました。
最終的に約20秒差まで詰められたものの、逃げ切られての2位。
ゴール前は100mほど直線になっているのですが、そこに入った時にゴールした直後の東洋大学が見えたことは今でも忘れられません。
個人では区間賞を取れたものの、嬉しさは全くと言って良いほどありませんでした。
◆3年生
この年も目標は大学駅伝三冠。
任された区間は前年同様アンカーで、前年の悔しさを思い出し、より一層気持ちが入っていました。
三冠を狙うチームにとって、出雲駅伝の勝敗は目標達成の可否が決まってしまう訳ですから物凄く大きな事です。
そんな3年時の出雲駅伝でしたが、1区から3区までが調子が上がらず区間10位前後となってしまい、それまでの駅伝で最も苦境に立たされることとなります。
3区終了時点で1位と2分20秒差の10位と、優勝戦線からは外れたと言わざるを得ない状況でした。
その状況でも4区・5区の選手が区間3位以内で8位まで順位を上げてきてくれたので、私としてはなんとしても表彰台である3位以内までは上げたいという思いがありました。
山梨学院大学のエノック選手と同じくらいの位置で襷を受けたため、とにかく競り合いながら前を追いました。
競り合いつつも、最後に負ける訳にはいかないので、ラストはどう仕掛けるかをずっと考えていました。
しかし順位を上げ切ることは出来ず、エノック選手にも最後にかわされ、5位でのフィニッシュ。
区間順位は2位と悪くは無かったものの、悔しさを通り越して虚しさを感じました。
また、この時に大八木監督がポロリとこぼした、「駅伝で区間賞が無かったの久しぶりだな…」という言葉が、私にとっては得も言われぬ悔しさでした。それほど凄いチームで戦っているんだと改めて身が引き締まる思いでした。
◆4年生
よく、”3度目の正直”という言葉を耳にしますが、まさに4年時の出雲駅伝はそれでした。
『今年こそ出雲で勝ち、大学駅伝三冠を』という思いは、チーム内全員にありました。
私にとっても大学最後のチャンスであり、そして最大のチャンスとも思っていました。
この年の駒澤大学は、5000m・10000mの平均タイムが全チーム中トップで、トラックシーズンでもコンスタントに結果を残していました。
私自身、主将を任され、チームとしての確かな手応えも感じていました。
ふと出雲駅伝のパンフレットを目にした時、12年前に駒澤が優勝した時にフィニッシュテープを切った、現・駒澤大学監督の藤田淳史さんが目に留まり、ゴールはこのポーズで…と思ったことを覚えています。
また、その年の解説が藤田さんだったのも何か巡り合わせのような縁を感じました。
この年、チームとして重要視したのは、もはや新たな”鬼門”とも言える1区でした。
逆にアンカーは、自分で言うのおこがましいですが、私が経験・実績共に積めていたため、そこまでで流れを作れれば勝てるはず…という雰囲気がありましたし、自信もありました。
1区を任されたのは、後に東京オリンピックの日本代表にもなる中村匠吾選手でした。
抜群の安定感と勝負強さは当時から健在で、安心して見ていられる強さがありました。
飄々とした走りで見事”鬼門”の1区で区間賞、流れに乗ったその後の選手も区間賞や区間新を連発し、アンカーの私に後続と1分の差をつけて襷が回りました。
初めて出雲駅伝で先頭で受ける襷は、本当に清々かったのを覚えています。
もちろん油断はせずに走りました。2年前に1分ほど先頭との差を縮めた経験がありましたし、油断すれば簡単にひっくり返されてしまう差であるということは、それまでの経験から学んでいました。
ただ正直なところ、少し浮かれていたかな?と思うところもあります。そう感じてしまうくらいには嬉しかったことを覚えています。
何はともあれしっかりと最後まで走り切り、ついに出雲駅伝で優勝!!
区間賞も獲得でき、言葉に出来ないほど嬉しかったです。
それまでの3年間があったからこそかもしれませんが、この大会は私の陸上人生の中でもBEST 3には入る思い出の大会です。
◆最後に
私にとっての出雲駅伝は勝つことの難しさと嬉しさの両方を強く実感する大会でした。
冒頭にも書きましたが、いよいよ駅伝シーズン開幕です。
選手一人一人に、私たちの知り得ない様々なドラマがあります。
皆さんにも応援している選手・チームがあるかと思います。
その選手たちを応援しつつも、走っている全ての選手にぜひエールを送りましょう!